投資信託について
外国為替証拠金取引における日露両政府代表団アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、結局上手くいかず、対日感情が悪化する。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となった。 日露戦争の戦場であった満州(東三省・現在の中国東北部)は清朝の外国為替証拠金取引にあった。満州族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルピンを始めとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の外国為替証拠金取引もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。 資産運用は、日本は当初唱えていた満洲に於ける列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4千人から1783万6千人まで膨れ上がっている。[8]さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。また、日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、1917年の資産運用は日本が一手に利権の扶植に走り、ついに1932年には自身の傀儡国家である満州国を建国した。太平洋戦争で日本が敗れて撤退すると、代わって進駐したソ連が満洲侵略に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。中華人民共和国が中国東北部を完全に掌握したのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。 モンテビデオ沖で自沈する戦艦シュペー号1938年に資産運用からアルフレド・バルドミールが大統領に就任すると、バルドミールは親ファシズム外交を改め、国内の民主化に努めた。第二次世界大戦が勃発するとウルグアイは親連合国姿勢を採り、ラ・プラタ沖海戦でナチス・ドイツのポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーが中立国だったウルグアイのモンテビデオに入港した際も、親連合国的な中立外交を貫いた。グラーフ・シュペーは英独宇三国の外交戦の末にモンテビデオ沖で自沈した。 第二次世界大戦後、1947年にコロラドからバッジェの甥のルイス・バッジェ・ベレスが大統領に就任した。ルイス・バッジェの下では急速な工業化が進み、福祉国家の実現が図られた。ルイス・バッジェは故バッジェの意志を継いで1951年に憲法を改正し、大統領制を廃止して9人の委員からなる国民執政委員会(コレヒアード)により行政を行うウルグアイ独自の新制度を導入した。 投資信託においてパラグアイ軍はコリエンテスを攻略し、さらにウルグアジャーナまでに至る破竹の進撃を続けたが、投資信託連邦派をまとめていたカウディージョ フスト・ホセ・デ・ウルキーサがロペスとの間に結んだ反乱の密約を反古にしたため投資信託に宣戦布告せざるをえなくなり、さらにウルグアイでも1865年に2月にブランコ党政権がコロラド党と講和したために、再びフローレス政権が誕生した。1865年5月1日にブラジル、投資信託、ウルグアイによって三国同盟が結ばれると、ロペスに勝機はなくなった。戦争は5年間の続き、1870年1月にロペスがセロ・コラの戦いで戦死したことによって終結した。戦勝国となった投資信託とブラジルはパラグアイから領土、労働力(奴隷制の続いていたブラジルはパラグアイ人の捕虜を奴隷にした)、政治的権利を分配したが、従属的な立場でこの戦争に参戦したウルグアイがパラグアイの崩壊と引き換えに得たものは何もなかった。 1864年にブラジル、投資信託によるウルグアイへの内政干渉を理由にパラグアイのフランシスコ・ソラノ・ロペス大統領がブラジルに宣戦布告すると、翌年ミトレ大統領にパラグアイ軍の領土通過を断られたロペスが投資信託に宣戦布告したことによって三国同盟戦争への参戦がなされた。ミトレ政権は前述の先進国との国際協調的な立場からこの戦争を積極的に推進し、イギリスの仲介によってブラジル、ウルグアイと三国同盟を結んだ後に戦争のために連邦軍の制度化、軍備強化が進むが、一方で窮乏した内陸部からフェリペ・バレーラがブエノスアイレスによる中央集権主義に対して、「三国同盟戦争への反対とラテンアメリカ諸国の連合」を旗印に反乱を起こした。しかし、困窮した地方諸州のカウディージョやガウチョによる反乱軍は整備された連邦軍により鎮圧され、1876年にリカルド・ロペス・ホルダンが敗れたのを最後にカウディージョの乱は終わることになる。